お問い合わせをお待ちしております
TEL. 00-0000-0000
営業時間 AM10:00 ~ PM20:00

HOME > コラムのページ

コラム

◆身体の記憶をたどる旅


●海への旅
 8月19日から1週間、海への旅をした。それは、主に卒業生を訪ねる旅でもあった。
 まず19日、近鉄アーバンライナーに乗り、伊勢・鳥羽に出かけた。竹下景子さんの顔写真で知られる「まわりゃんせ」の誘いで、安く券が手に入るとのこと。しかし、そんなに多くの施設を周ることはできない。「賢島」というだけで、身体にはおよそ30年以上前の記憶がよみがえる。勤務校の同僚の数家族で出かけた旅であった。夕食の御膳に大きな舟盛りが出てきたことを覚えている。連れ立ったメンバーの誰もが若かった。小さな子どもたちは波打ち際で興じたに違いないが、あまり覚えていない。

 旅館の出迎えまで1時間以上あったので、英虞湾のクルージングに乗った。英虞湾は幾重にも入り込み、波も穏やかだった。真珠の養殖があちこちでやられていた。有人島、無人島あわせ、たくさんの島が望見された。ある島は小学校しかなく、中学校に通うのに船に乗って通うという解説があった。天気もよく、缶ビールを飲みながらの快適な船旅だった。
 迎えのバスに揺られ、旅館に着いて、部屋に通された。
部屋は外海に面しており、窓の左側から朝日が見え、右側に夕日が落ちていくと、仲居さんが教えてくれた。
ときあたかも和歌山の方に夕日が落ちる頃だった。右手は熊野灘だった。目を海岸線に移すと、波打ち際は黒ずんだ土で、とても海水浴にはむかない状態だった。多くの海岸線がこのように白砂が失われた状態になっているのだろうか。ここでも奄美のサンゴ礁の海の群青色と広々とした白砂の浜を思い出していた。この地でとれる魚を主体にした和食はほどよい量で、堪能できた。私としてはめずらしく、温泉に夕方・晩方・翌朝と3回も入った。美人湯と薬湯の源泉の異なる二つの温泉だった。海の幸を加工したお土産を試食した上で買った。

●淡路島へ
 20日に大阪に戻り、翌21日午前、淡路島行きのバスに乗った。5月に続き、卒業生に車で迎えに来てもらう旅だった。5月の折りは連休のため2時間の予定が4時間以上かかって、卒業生に大変迷惑をかけたが、今回は定刻どおりに洲本港に着いた。洲本城に上った。茶店が1軒開いていた。奄美の徳之島の観光名所にあった茶店は、次々と店を閉じていく。さびしい限りだが、ここは2軒のうち、1軒が開いていた。天守閣のレプリカに上り、眼下の洲本市内が見渡せた。最上階の窓から吹く風が涼しく、おもわず「いい風やねー」と口に出た。若者二人が後から上ってきて、先に降りて行った。天守閣を下り、洲本の海岸線をみると、お盆を過ぎているが、家族連れが海水浴を楽しんでいる光景が目に入った。「今でも泳いでるんやね?。」と卒業生と言い合った。

 城の階段を下りたところに、先に声を掛けられていた茶店があり、そのまま帰るのは気が引けたので寄った。ニコニコ顔でおばさんが迎えてくれた。徳之島では、茶店の番は主に男性がやっていた。が、ここはおばさんだった。かき氷を頼んだ。腸にしみた。喉がすっきりした。淡路島から四国への「鳴門海峡大橋」が開通してから、客足がぱたっと減りました、そうおばさんは苦笑交じりに話した。

 下へ降り、文化資料館に入った。念入りに見て歩いた。この島には長い歴史が刻み込まれている。それは、時に時代の支配者に組み込まれた「歴史」であるが、それだけでなく、まさに庶民の日常の暮らしが刻み込まれたものだった。ボロボロに朽ちた丸木舟が展示されていたが、大昔島の人たちはこの丸木舟で各地に出かけたのだろう。海賊も出没しただろう。島であるということは、外の世界に通じることである。早くから「交易」を暮らしの中心においてきたに違いない。懐かしい民具もおかれていた。すべて見てまわってかなり疲れた。
 すぐ側に「足湯」があるというので、入りに行った。先客が二人いた。うち一人は、91歳になる老爺であった。1日に4回入りに来る、膝も悪かったが、この足湯のお陰で今も歩ける、ボケも治った。このように繰り返し独り言を聞かせた。われわれの後に、若者のカップルが2組浸かりにきた。15分も浸けていると、疲れがすっきりとれた。狸もこの温泉に浸かったのだろう、愛嬌ある顔をした狸の像が置かれていた。

 夕食にはまだ早いということで、以前にも入った本格的なコーヒーを飲ませる喫茶店に入った。1杯のコーヒーを大事に飲みながら、学校教育や地域と相互補完の関係にある「学童保育」「不登校生徒が通う適応教室」などについて語り合った。また、今の学校を取り巻く環境の厳しさ、その主要な原因を作りだしている文科省の施策のブレについても触れた。彼女のこれからの進路も心配で、採用試験の状況も話した。

●祖谷渓への旅
 翌日は朝早くから迎えに来てもらい、彼女の運転する車で出発した。徳島の「祖谷渓」をめざして一路西に向かって走った。最近NHKの番組で東ちづるさんが祖谷渓を訪れた時の様子が報道されていた。それを観て、何としても一度行ってみたいと、卒業生に頼んだ。何度かのメール交換ののち、祖谷渓行きが決まった。「かずら橋」めざし、一路高速で徳島に入った。阿波池田から一般道に。小歩危から大歩危を経て、なお延々と車を走らせた。3時間を要してやっとのことで、祖谷渓谷に着いた。吉野川のゆったりした流れは壮観だった。「かずら橋」を渡るのに500円払って、できるだけ眼下の流れを見ないようにしながら、こわごわ一歩一歩進んでいった。渡り終えて河原に降りた。河原では若者の集団が一人ひとりを川に投げ入れ、男は全員ずぶぬれになり、「儀式」を終えた彼らは去っていった。

 中学から高校にかけて、毎年のようにワルガキ連中とキャンプに出かけたことを彼女に話した。下相談に時間をかけ、付き添ってくれる先生の家に集まりワイワイ言いながらプランを練った。川べりにテントを張り、山に入ったり、河原のあちこちから枯れ木を集め、河原の石を積んでかまどを作り、新聞紙と薪をくべて煮炊きした。私はいつも料理係だった。ガンジーというあだ名だった。痩せてあばら骨がくっきり見えたところから付けられたのだった。このグループを「十神塾」と名づけ、「掟」を作って得意になっていた。

 水はゆったりと流れていた。引き込まれるように、しばらく川の流れに身をゆだねていた。周りに人はいなくなり、それでもしばらくは岩場に腰を据えていた。十代の「思い出」としてではなく、身体に記憶された《体験》として、その体験は私のこれまでの社会生活のさまざまな場面での判断の材料となり、行動基準を規定しているはずだ。

 たっぷり休養した二人は、また車で「東祖谷」に向い、テレビでも紹介されていた〈案山子の里〉を訪ねた。案山子の作り手の方は仕事でおられなかったが、姑の方が留守番をしておられた。親切に家にまであげてもらった。太い梁を渡した本格的な日本の家屋だった。天井から大きな提灯が二つぶらさがり、自在鉤が吊るされた囲炉裏があった。少し耳が遠いとのことで、大きな声で話した。近くの道路、バス停留所、畑には手作りの案山子がたくさん据えられていた。バス停の前の道路際に坐している案山子は、後ろ向きで帽子を被っており、もう少しで声をかけそうになった。停留所には、2体の案山子があり、1体はギターを弾いていた。静かな時間が流れていた。悠久につづくであろう村の営みを想像した。近くの山には狸や鹿など多くの動物たちが生息しているだろう。その動物たちと村人たちとの「交感」の物語も多く語られてきたに違いない。
 帰路は剣山を越える山道を走った。目に入る限り杉山で、現に杉材を満載したトラックに出合った。これでは、クマをはじめ動物たちの食料がなくなり、棲めないはずだ。「日本熊森協会」の人たちによる植林(クリその他動物たちの食べ物がなる木)のことを思った。剣山のヘアピンカーブを長い時間走り続け、ようやく美馬の街に出、一路淡路島に急いだ。


●歴史を感じとること
 私が信頼する哲学者・内山節は、その著『「里」という思想』(2005年9月、新潮選書)で、次のように書いている。

--少し前までの社会では、人々は自然に歴史の時間軸を感じとることができた。子供たちはおじいさんの植えた木をみながら育ち、多くの人たちが、祖先が基礎をつくった家業を継いだ。語り継がれていく言葉、作法、習慣、行事、祭り、受け継がれた技。そういったすべてのものが、人は歴史という時間軸とともに生きていることを、自然に感じとらせた。つまり、人間は、自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとっていたからこそ、それと照らし合わせながら、日本の歴史や世界の歴史といった大きな歴史をも、読みとることができたのである。

--ところが現在では、自然に歴史を感じとることのできるローカルな世界が、弱体化している。私たちは次第に、歴史を感じとることのできない、都市の漂流民化していった。しかもその私たちが身を置いているのは、情報化された市場経済の社会である。

--情報化社会は、氾濫している情報のなかから選択することだけを、人に要求する。その情報が生まれ、消えていく歴史は問われない。今日の市場経済もまた、現在の利益や効率だけを私たちに迫る。(中略)社会のこのような現実は、歴史とともに生きているという感覚を衰弱させる。そして、そのことの重大性を私たちに教えたのが、2001年のニューヨークのテロ以降の雰囲気だった。(略)いわば社会は、歴史のない世界のなかでテロと向き合い、アメリカによる新たな戦争に同意したのである。

--現代人は、歴史の喪失という人類の危機に立たされているのかもしれない。(略)今日の課題のひとつは、どうしたら人間は歴史をとり戻すことができるか、である。

●「過去の記憶」が判断のよりどころ
 では、なぜ「歴史をとり戻す」ことが今日の大きな課題であるのか。本来私たちは「歴史の記憶」とともに生きている。それは20世紀の歴史が「文明と進歩による繁栄の歴史」であるといったことに惑わされるのでなく(惑わされた結果がどれほどひどい戦争と貧困、虐待と飢えを招き、それに有効な手を打てていないかを見よ!)、人が何によって生き続けてきたかをとらえ返すことである。内山は、別の章で次のように言っている。

--その歴史の記憶には、世界史や日本史といった記憶だけではなく、地域の歴史の記憶やわが家の記憶、自分の半生の記憶もある。そのようなさまざまな記憶を多層的にもちながら、その記憶に照らして価値判断をし、自分の歩む道を決める。(中略)ところで、その記憶とは、知識として存在するものなのだろうか。(略)(たとえば古代の仏像に接することによって)知識がふえるだけでなく、観るという行為によって得られる記憶が残る。いわば、そのことによって、「眼の記憶」とでもいうべきものが残され、その「眼の記憶」が、それ以降の私たちの判断に影響を与えるようになる。(もちろん「手の記憶」「身体の記憶」と呼べるような記憶もある、そうした)過去の記憶もまた、知識だけでは手に入れることのできない総合的な記憶として、残されていく。(中略)身体の記憶に包まれることがなくなった知識だけの記憶は、それ自体として弱さをもっているのである。(言い換えれば)現在では、歴史が蓄積してきたものを受け継ぎながら創造的に生きる力が弱ってきている。

 淡路島から徳島の祖谷渓、そして奥祖谷に車を走らせて観たもの、聴いたものは、触れたものは確実に私の《身体の記憶》となっている。また記憶とするために、私は時を見てそのことを語り続けるだろう。げんに今このように文章に書いている。

●青春18切符の世界に浸る
 この徳島行きから帰った翌日、私は「青春18切符」を使ってローカル線の旅に出た。まず岡山に行き、『もっと生きていたかった -子どもたちの伝言-』という朗読劇を観た。その会場には、東京からこの朗読劇の構成詩の作者・石川逸子さんが見えていた。始まる前にあいさつをした。1時間半にわたる朗読劇は、この世に生を受けながら子どもの時にいのちを断たれてしまった人に成り代わって、石川さんがその無念の「事実」を詩の形式で表したものであった。この石川さんは「ヒロシマ・ナガサキを考える」という個人誌を発行されており、現在90号を超えている。分厚なリーフレットを毎回お送りくださっているお礼の手紙を出したのに対し、「岡山で会いませんか」とおっしゃっていただいたことで、岡山に出かけたのであった。公演が終わり、会場を出たところで石川さんと立ち話をして別れた。

 岡山駅に取って返し、すぐ広島行きの在来線に乗った。新幹線なら1時間で着く行程をあえて在来線にしたのには、訳がある。倉敷、福山、尾道、三原という地には、私のたくさんの「記憶」が詰まっている。それは連れ立った人との記憶もあれば、その地の歴史・風土との出会いが強い印象を残しているという記憶もある。出会った風景や人たちそれぞれにまつわる出来事や交流、そこに忘れられぬ体験が刻まれており、それらを通して私の貴重な経験となっているのだ。そうした「記憶」を一つひとつ取り出し、振り返るには、新幹線はダメで、やはり各駅停車にかぎるのだ。

 広島駅では、卒業生が娘さんと一緒に迎えに来てくれていた。夜に入っていたが、車で市内を案内してくれた。原爆投下のとき人々が熱線に焼かれ、飛び込んだ太田川なども渡った。原爆ドームが薄暗がりの中に浮かび上がっていた。それらを目に焼き付け、車は東にとり、高台にある卒業生の家に着いた。夕食が用意されていた。83歳になるお母様が大阪から来ておられた。娘さんの旦那さんはまだ仕事から戻っていなかった。刺身以外に、おなすを焼いて、その上に大根おろしをのせ、おかかをまぶして醤油をかけた一品が食卓に出ていた。「せんせ、これおいしいですよ。なすびはフライパンで焦げ目がつく程度に焼き、熱いうちに食べるともっとおいしいんよ。」と、57歳になる卒業生が説明した。冷めてはいたが、とてもおいしかった。心臓の手術をされたというお母様はお元気そうに見えた。

 食事を終えて、車を走らせ、近くの大きなお風呂屋に出かけた。翌日は、旅の疲れからか、寝坊をしてしまった。が、若い旦那さんの運転で、6人を乗せたワゴン車は呉に向かった。宮島とは反対方向だが、私が竹原に行くので、呉によってからその方面に送ってくれるという算段だった。呉の街に入り、「ここの小豆の入った上げ饅頭は並んででも買うほどで、おいしんよ。」と卒業生が言った。娘さんが早速買いに行き、みなで一つずつ熱いのをほおばった。まもなく、近年設けられた「大和ミュージアム」に着いた。平日なのに、子供連れの家族がたくさん来ていた。やはり夏休みだからか。ミュージアムの前に海上自衛隊の資料館があった。無料で見学できるという。要は宣伝が目的なのだ。それには入らず、向いのミュージアムに入った。日本が戦争中総力をあげて建造し、沖縄に向かう途中、奄美の徳之島の沖合で沈没した「戦艦大和」を、今の人たちにどのように伝えようとしているかに、私の関心があった。

●なんのための展示か
 今も造船業その他大きな企業が軒を連ねているが、呉の街自体はさびれていたらしい。が、このミュージアムができて、賑わいが戻ったという。館内は見学にやってきた人たちで混んでいた。がしかし、展示を見ていくうちに、このミュージアムそのものを構想し、常設館を貫いている「ねらい」に、大いなる疑問がわいてきた。その主要なトーンというのは、次のようなものだった。すなわち、原爆投下の一つの原因をなしている(と私には思われる)戦中の軍需産業、とりわけ江田島の「毒ガス」製造、呉の造船業とりわけ「戦艦大和」の建造自体をどう振り返り、位置づけしているか、その視点で見ると、そうした戦時中の日本の、そして広島が背負っていた戦争遂行上の任務、そのことへの「反省」などは微塵も感じられなかった。「戦艦大和を建造する上に発揮されたその優秀な技術が、戦後の経済復興を下から支えた。」というのが主要なトーンだった。吉田満の優れた記録文学である『戦艦大和の最期』などは、なんの脈絡もなく都合のいいところだけをつまみ食いする形で引用されていた。アメリカによる原爆投下と広島の軍事産業の関連については、まったく触れられていなかった。これだけの集客をし、もしかすると中学校の社会見学などでも訪れるかもしれないこの施設が発信しているメッセージとはどういうものだろうか。

 そういう問題意識で見ていくと、日本が始めた戦争によって2000万人といわれるアジアの人々の命を奪い、日本人300万人を死に至らしめた「事実」と無縁なところで設置されたミュージアムであることが分かってくる。そのことにどれくらいの人たちが気付いているだろうか。そのことが気になり、中学校の講師をしている娘さんに問いかけたりした。今の小学校・中学校の教科書が戦争をどのように記述しているか、早急に調べてみないといけない。

 徳之島の犬田布(インタブ)岬の、太平洋に面した広い野原には、今も戦艦大和の慰霊塔が立っている。大和に使われていたと同じ大きさの錨が両脇に置かれている。数年前まで、この地で毎年「慰霊祭」が執り行なわれてきたが、遺族やわずかの生存者の高齢化のため、今は行われなくなっている。『戦艦大和の最期』の作者・吉田満もきっとここに足を運び、死んでいった多くの「戦友」の冥福を祈り続けたであろう。

 広大な奄美の海の見はるかす水平線を見ながら、この岬のはるかな沖合で、アメリカの絨毯爆撃にあい、あえなく沈没していった戦艦大和。その一部始終が吉田満の、漢字カナ交じり文の《乾いた文体》で刻まれている。徳之島の特攻基地(多くの人が、日本の最南端の特攻基地は鹿児島の知覧だと誤解しているが)、ここから沖縄に向かって飛び立っていった特攻隊員の非業の死と合わせ、戦時においてどれだけの命が、まちがった戦争遂行の判断によって奪われていったか、その「事実」の前に、もっと私たちは立ち止まらなくてはならない。

●歴史観の再検討を
 私は、「まちがった戦争遂行の判断」と言った。この戦争(日中戦争から太平洋戦争にいたる15年戦争)を、今だから「まちがった戦争」と言える。が、1945年 8月15日を「終戦」と呼び、それが常識となってきている今日、やはり「敗戦」と言わなくては、軍指導者だけでなく私たち庶民の戦争責任・戦後責任がぼやけてしまう。そのことも含め、「なぜあの戦争を食い止められなかったのか」という問いは、いつも私たちの中にもっていなければならない。では、それはどのようにして可能なのか。

 自分の中には、戦中・戦後の「体験」が刻み込まれている。それは自らの体験だけでなく、多くの人たちの体験が重ねられている。被害の体験だけでなく加害の体験もようやく語られ始めている。その記憶の積み重ねが一つの価値判断として働くように機能しているだろうか、ということである。記憶された体験は、今やグローバリズムの滔々たる流れの中でローラーをかけられ、大きな力となりえているとは言えないような状況だ。それに疑問を投げかけるのは、少数の人のように思える。「文明と進歩の歴史」観からすれば、グローバリズムは結構なことであるにちがいない。

 しかし、そのグローバリズムが地球を破滅的な方向に導いていることは、もはや明らかではないだろうか。その危機的現象はあちこちで見られるはずだ。グローバリズムを良しとするのは、戦後われわれが手に入れた「豊かさ」の延長上に物事を見ようとする態度だ。手に入れた「豊かさ」が、今日どれだけの「歪み」と「困難」を私たちの暮らしの中にもたらしているか。その「豊かさ」が、開発途上国の民の「貧しさ」にどれだけ負っているか。アンフェアーなトレイドによって達成された「豊かさ」の構造を、フェアーなトレイドにすることで、「困難」をわかちあい、極端な貧困と幼い命の飢餓と死にストップをかけていけるか。がしかし、達成された「豊かさ」を手放したくないと、今の生活に固執している私たち。この固執は、頽廃にすぐ結びつく。先に引用した内山のことばを、再度ここで繰り返したい。

--人間は、自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとっていたからこそ、それと照らし合わせながら、日本の歴史や世界の歴史といった大きな歴史をも、読みとることができたのである。

 大ざっぱな日本史に組み込まれなかった「自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとってい」く道筋は、「身体に記憶」された個人や共同体の「記憶」を基にして価値判断していくところにある。そのローカル性は、アンフェアなトレードのもとに貧困を余儀なくさせられている、途上国の働き手のローカル性につながっているはずだ。もはや我々が手に入れた「豊かさ」の意識的な「放棄」を決意しないといけないのだ。子どもに対しても「与えない」ことを通じて育てることが必要なのだ。ほんの40年前後の日本の状態に目を凝らすことで、そうした道筋は見えくるだろう。


●大崎上島再訪
竹原まで車で送ってもらい、大崎上島ゆきのフェリーの港に着いた。午後3時の便にギリギリ間に合った。挨拶とお礼をもそこそこに船の上の人となった。

広島県側の島々に目を向けるうち、たちまち30分たち、垂水港に横付けされた。港には卒業生の父上が迎えに来てくださっていた。「まだ島を一周していませんでしたね。」と、父上は周辺40kmという島を案内された。つい2年ほど前まで勤めておられたセメント会社の横を通った。「いつまでもやってるとね。若い者に譲りました。」そうこうしていると、車が止まった。海に突き出した「弓張岩」という看板が立っていた。その説明によると、1400年ころ、このあたりの土地に海賊が出没して、民家や船を荒らしたらしい。そこで城主で弓の名人である小早川冬平が撃退したとある。

 次に車が止まったのは、愛媛県側の島々を一望できる温泉があるという場所だった。露天風呂に入りながら説明図に従って島々を確認していった。右手に今治、さらに右手に松山がかすかに見える、そういった位置だった。周辺40kmを巡り終え、家に着いた。以前一度泊めていただいた、少し見覚えのある家だった。テーブルにはすでに「鯛の活け造り」が乗っていて、私たちの帰りを待っていた。母上が気を遣ってくださったのだ。「ビールも、断崖絶壁から飛び降りる気持でこれを買いました。」と、金賞を連続で受賞した例のビールを出してこられた。ユーモアを利かせた母上の言動が私の気持ちを和ませてくれた。

 私の卒業生は、この家の一人娘だ。大学を卒業後、岐阜県の方の会社に就職し、昨年大学時代から付き合っていた彼とゴールインしたと、年賀状で母上が伝えてこられた。その娘夫婦がこの夏、盆には郷里である大崎上島に里帰りしたと、父上は嬉しそうに話された。一人っ子を手放す親の気持ちは、私にはわからない。が、年に2回帰ってくる娘をご両親は首を長くして待っておられるのだろう。退職して家におられる父上は、なおさらその気持ちが強いのではないだろうか。この町には、8月17日を期して島から出て行った人たちが「祭り」のため戻ってくると聞いた。私の卒業生もきっとその「祭り」には間に合うように帰ってくるに違いない。

 この島には造船業があり、あと温暖な気候から「柑橘類」の栽培がなされている。みかんやぶどうなどがよくできるとか。ブルーベリーもできるらしく、冷たく冷やしたのを土産にと持たせて下さった。島の周辺は40kmとお聞きしたが、私が毎年出かける徳之島はその倍で、80kmあまりある。その位置の違いからして、刻んできた歴史には相当の開きがあるだろう。一度ご両親を徳之島にご招待したいなと気持ちが強く動いた。お母様はまだ「しいたけ栽培」の会社にお勤めらしく、そのお勤めが終わった頃に来ていただけたらと。

 この島には小学校と中学校がある。高校がないため、生徒たちは、私が乗ったフェリーで毎日高校に通う。私の卒業生もそのようにして、自転車とともに毎朝フェリーに乗り込んで通学したという。小京都と呼ばれる竹原の景観保存地区を卒業生と一緒に歩いた時の印象が強く、頼山陽の出生地でもあるということで、私の関心を強くひいた。いずれかの機会に、また卒業生と竹原の街を歩きたいものだとの願っている。帰りは、私の気に入っている「呉線」に乗り、播州赤穂を経て一路大阪に戻った。



お世話になった「コリアボランティア協会」
国立療養所栗生楽泉園 藤田三四郎 様
一度は出かけたかった「近つ飛鳥博物館」へ~先人の偉大な知恵と暮らしの営みに脱帽する貴重な体験~
徳之島は別天地だった
身体の記憶をたどる旅
「教師駆け込み寺・大阪」趣意書より



 

お問い合わせはコチラへ!

icon 電話090-5256-6677 
icon E-mailsonen1939@s4.dion.ne.jp

ご不明な点がございましたら、まずはお気軽にご相談下さい。


ページトップに戻る