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コラム

◆国立療養所栗生楽泉園 藤田三四郎 様


○弥生三月に入りました。まだまだ寒い日が続きますが、お元気でお過ごしでしょうか。
 八十歳のご高齢になられて、寒さもひとしお身にこたえるのではありませんか。
 特に群馬の栗生楽泉園は山の中にあり、浅間山の吹き下ろしもきつく、 積雪もかなりあるのではと
 想像しています。
  これまで何度か訪問させていただいた時にも、園内の雪道を歩いた記憶があります。

 ○先日は、『月光を浴びて』(新葉館出版)をお送りくださいまして、まことにありがとうございます。
   新しい著書を出されるたびに送っていただきながら、
   ちゃんとしたお礼状も出せぬままになっています。
   今回のご著書も、西來みわ様が巻頭言を書いておられ、これまで序文を書かれた本を

  全部読み返しましたとありました。
   私も書棚からこれまでに頂いた『藤田三四郎散文集 - マーガレットの思い出』(1993年、青磁社)と
   『マーガレットの丘 - 藤田三四郎詩文集』(2006年、新葉館)の2冊を取り出し、
   今回送っていただいた 『月光を…』と合わせ、三冊を、あらためて紐解きました。
 
 ○『月光…』の巻頭近く、山梨で講演された冒頭近く、嶋崎起代子先生の名を見出し、
   とても懐かしく思い出しました。嶋崎先生は、金夏日さんが祖国に帰り、
   父上の墓参りをしたいと希望を述べられ、嶋崎先生が同道されて念願を果たされたのでしたね。
   私は、園に初めて出かけさせていただいた後、たまたま山梨で研究会があり、
   その折先生の開業されている医院にお邪魔したことがありました。そんなことも思い出されます。
 
 ○藤田三四郎講演といえば、尼崎市西宮教会でお話しされるということが、新聞に載り、

  連絡先として好善社理事川崎様とあり、すぐに電話を入れ藤田さんが関西に来られることが
   分かりました。それで、尼崎のホテルに私も一人で訪ねさせていただきました。
   6月29日のことであったと、今回の著書で確認いたしました。
   その折、「ハンセン病市民学会」の方が車で迎えに来られ、私もそれに乗せていただき、
   大阪市内を雨の降りしきる中走り、「お孫さんの家」に着き、何の知り合いでもない私まで、
   藤田さんのご縁であがらせてもらい、一緒にお話ししながらたこ焼きその他を御馳走になりました。
   まるで昨日の出来事のように、鮮明に思い出すことができました。
   その折、かなり遅れて参加された日本経済新聞記者の女性の方とはその後も連絡を取り合い、
   私が主宰している「教師駆け込み寺」の活動の記事を書いていただきました。
 
 ○ところで、藤田さんは、ご自分のことを「戦争とハンセン病の語り部」だとおっしゃっています。
   戦争とハンセン病は切っても切れない関係にあることをこれまでの学習で少しは理解していましたが、

   以前の著書でもそのことに何度も触れておられ、今回も『マーガレット…』で「私は軍隊に五年。
   ハンセン病との闘いを六十年間継続出来たことは感謝です。今後は、戦死した戦友のためにも戦争、
   ハンセン病の体験を一人でも多くの方に 《語り部》として伝えたいと思います」と、書かれています。
   次の「戦争体験者に耳を傾けて下さい」の冒頭にも次のように書いておられます。
   「私は十四歳で少年航空兵として入学、同期生は三百人でした。三年間の教育を終えて、
   三分の二が外地に配属され、同期生たちは、ほとんど戦死しました。私は十九歳でハンセン病の
   宣告を受けて、国立療養所栗生楽泉園に収容されました。今年で六十年となりますが、
   その間ハンセン病の人権回復のために努力してきました。その結果、予防法は廃止されました」と。
   今の若い人たちはもちろん、戦争体験をしていない世代が大半になった今日、
   「知らない」では済まされないことを戦争無体験者の人達に伝えていかねばなりませんね。
   私の生年は1939年で、敗戦の翌年小学校にあがりました。
   ですから戦争体験と言っても「空襲体験」と「ひもじさ」の体験がほとんどです。

   しかし、神戸の空襲で父があやうく一命を落としあっけたと聞き、もしそうであったら、
   私たち子どもの将来は、今とはうんと違ったものになったであろうと思いました。
   通う前に名倉小学校は空襲で焼夷弾に焼かれ、講堂の屋根は突き破られ、
   青天井の下学級に分かれてその講堂で授業を受けたことを覚えています。
   また、階段の手すりも焼けただれ、戦争の傷跡として今も保存されています。
   学校の空き教室が「資料展示室」にもなっています。

 ○多くの「仮孫」さん(千人を超すとか)に囲まれ、慕われる藤田さんの姿が随所に出てきます。
   今回の『月光…』にも、法政大学の学生さんの訪問記が載せられていて、若い人たちの優れた
   感性に触れることができます。そのうちの梶原綾さんの文章が目にとまりました。
   -- 私はハンセン病にかかったこと恨んではいないですよ。もし病気にかからなければ、

   戦争に行かなければならなかったし、こうして皆さんと出会うことはできなかったでしょう。
   病気にかかったから、沢山の人と出会えたんです。
   藤田さんのこの言葉に衝撃を受けた。さらに、「当時の医者が行ったことは、
   もちろん医学の倫理に反しています。だけど、それを現代の視点からみてはいけない。
   当時の状況を踏まえて考えなければならない」と当時の医師を庇う言葉から、
   藤田さんの懐の深さ、そして測り知れない苦労を乗り越えてきた人だけが持つ「強さ」が感じられた。
   /藤田さんは ただハンセン病の悲惨な歴史を語るのではなく、生きることの大切さ、言葉の大切さ、
   人と人との結びつきの大切さ等、普段の生活で見失いがちになっている大切なものを私たちに
   気付かさせてくれた。毎日を健康に生きられ、家族がいつも近くにいることが当たり前で、
   立ち止まって有難いと感じることはほとんどなかった。
   藤田さんの言葉は胸に響き、「当たり前だと思っているもの」こそ自分にとって一番大切な
   ものなのではないか、と思えるようになった。(後略)


  ○若い人たち(仮孫さん)の、亡くなられたお連れ合いである藤田ふささんに捧げられた
   数々の「言葉」も、私を深くとらえました。『マーガレット…』に載っています。(JLM第812号)
   ふささんとの結婚のいきさつは、今回の『月光…』にも 語られています。
   紹介者に引き合わされたこと。 結婚の条件として断種手術を受けさせられたこと、
   戦後間もないことで食糧に乏しく、友人など25名を招いてジャガイモカレーで挙式されたこと、
   新薬プロミンによって入園者全員が全治したこと、それを受けて「私は六十年から現在まで
   自治会活動を継続し、真の人間回復の実現のために努力してきました。
   その間、妻には迷惑をかけましたが、夫唱婦随でやってきました。
   しかし、その妻も二〇〇四年六月十九日、七十八歳で「主」のみもとへ旅立ちました。
   夫婦で五十八年苦楽を共にし、妻の匂いのしみついた舎から…」と語られています。
   言葉でいえば、「妻には迷惑をかけましたが、夫唱婦随で…」となるでしょうが、
   奥さまのふささんは(一度しかお目にかかったことはありませんが)、藤田さんを支え続けてこられ、

   きっと大変だっただろうと思うのです。自治会長として長年重責を果たされてこられる間、
   言うに言われぬことがたくさんおありだったでしょう。
   昔は「内助の功」ということが言われましたが、
   園の皆さんをまとめ、他の自治会と協力し、時に激論もたたかわされたでしょうが、
   そうしたことがおできになったのも、奥様ふささんの陰の力が絶大であったと想像します。
   一度きりでしたが、お宅に寄せていただき、お酒を頂きましたが、つまみにおいしいスルメを
   出されたことを記憶しています。
   その際、にこにこして応対してくださった奥様の姿が忘れられません。

 ○藤田さんは、桜の花、マーガレットの花、彼岸花など、花にことよせてさまざまに
   出会った人たちを追憶されています。
   「私は桜の季節になると、亡き妻を思い出します。妻は花が大好きでした。
   二十数年前より目が不自由になりました。雪が解けて春一番に咲くのは水仙です。
   私はその花を手折って妻の手に。すると花に口付けをして花との出会いに感動

   私は四季の花を同様に妻の手に渡しています。今も妻の仕草が鮮明に浮かびます。
   /桜の花が咲き始めると、孫たちが、私たち夫婦を桜の名所に案内してくれます。
   満開の桜の花の並木の下で孫たちと歩いていると、
   妻は『お父さん、本当に桜の花はきれいだなぁ…私たちは最高に幸せだ』と言いました。
   /『また来年も来よう』と孫が言うと、『そうだね』、とこの言葉が最後になろうとは…。(中略)
   …(今年も)桜に会いたいと言います。
   私は返答に困ってしまいました。明日桜の枝を折ってくるからと言うと「早く」と言います。
   私たちは桜の花と共生しながら五十八年間夫唱婦随で歩いてきました」
   藤田ご夫妻が、互いの存在を想い合い、支え合って五十八年間歩んで来られたことが、
   伝わってきます。そういえば、2007年さきほど触れた西宮教会で講演された折、
   久方ぶりにお会いした藤田さんは、
   一回り小さくなられたという印象を受けました。


 ○花といえば、マーガレットの思い出と副題された『藤田三四郎散文集』に、
   副題と同様「マーガレットの思い出」と題されたエッセイが入っています。
   数あるエッセイの中で、その描写の素晴らしさとともに私の心に深く刻まれた文章です。
   -- 桜前線が日本列島を北上し本州から北海道へ渡る頃、日本の中央に位置しながら
   春の遅い当園にも漸く桜の季節が訪れる。そしてその桜が散り終える頃、
   療舎の庭先の草花が一斉に開き始める。厳しい冬の寒さに耐えて花開く今の喜びは
   ひとしおであろう。
   /療友たちはそれぞれに春のプランを立て花作りの話もはずむ。
   大自然の営みも活発となり蓄積していた力が泉のように湧きだす。
   周囲の山々が新緑を増し、カッコーが啼きはじめると、療友たちはミニ菜園に収穫の
   夢を託して種蒔きに励む。春は花々の開花を促しながら時が刻まれてゆく。
   桜が散り山つつじが咲き、私たちの目を楽しませてくれる頃になると、

   園内にはマーガレットの白い清楚な花が咲き始める。私はこの花には
   特に印象深いものがある。

   -- 戦後まもなく、暗い気持ちで入園し療養生活に入った頃、医局への行き帰りに出会った
   白い小さな花。食糧の方が先と、増産に励んだその時期にあっても、「心もすさんでいた時代に
   この花と出会い、耐えること生きることを教えられた。この可憐な花にも厳しい冬の時期があり、
   風雪に耐えた時があって、今花を咲かせることが出来るのだと。柔らかな花びらに手を触れ、
   顔を寄せて見ているうちに、荒んだ心も次第に和らぎ、自分を見つめることが出来るように
   なっていった」「三○年代になると私たちの療養生活にも潤いが出来てき、園内の空地や
   道路の左右には桜が咲き花見を楽しむ人も多くなった。やがて葉桜となり、つつじも終わる頃には
   山の緑も濃くなり、園内ではマーガレットが白一色に咲き競う、この時期が私たちにとって
   一年で一番生活しやすい季節なのである。(中略)細い根でありながらきびしい冬に耐え、
   生き抜いて春には花を咲かせ、私たちに季節の挨拶をしてくれるこの花……、(中略)

   一それぞれに、花に交わりながら 一つのドラマを作って行くのだと思う。
   私はこの小さな白い花に力づけられ励まされて来たように思うのである」と。
 
 ○花とともにある人生を見事に活写したエッセイ。金関寿夫さんの訳になるネイティヴアメリカンの
   哲学的な詩を集めた『今日は死ぬのにもってこいの日』(ナンシー・ウッド著、めるくまーる刊)の
   数々の古老たちの語りにも似た響きが、藤田三四郎さんのこのエッセイにはあるように思います。
   --(前略)冬はなぜ必要なの?/するとわたしは答えるだろう、/新しい葉を生み出すためさと。
   (中略)あまえがまたきく、夏が終わらなきゃならないわけは?と
   /わたしは答える、/葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。

   -- (前略)……川の流れは、岩の上でゆるやかな踊りを踊り、「別れの歌」を歌っていました。
   鳥たちもまた、季節の終わりが近づいたことを、わたしに告げていました。
   /けれどどちらを向いても、悲しみというものはありません。というのは、すべてはそのとき、
   そうあるべき姿、そしてそうあるべきだった姿、また永久にそうあるべきだろう姿を、

   とっていたからです。ねえ、そうでしょう、自然は何ものとも戦おうとはしません。
   死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。
   だからすべてのレベルでの祝祭があるわけです。(以下略)

   別のエッセイで藤田さんは「出会う人総て私の恩師です」と語られている。
   花や自然と共にある人生、「仮孫」たち千人以上に囲まれての人生、
   50年にわたるハンセン病への偏見と差別と闘い、
   現実的な今後の療養所のあり方をもとめてなお行動する人生、その長い人生の歩みから、
   私はまだほんのわずかしか学んでいないことに気付かされます。
   いずれ遠い奄美の・徳之島の地に移り住む私として、せめて大阪にいる間に、
   もう少し交流をさせていただきたいと念じ、長い手紙を閉じます。ありがとうございました。


                      2009年3月6日(金)     下 橋 邦 彦


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