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コラム コロナ禍に想う
◆『80歳・無謀な引つ越し」
貸借対照表~1年を経過して振り返ると・・・
2020年3月初旬、同じ東淀川区の阪急淡路駅東口側から西口側へ引っ越した。町名で言えば菅原7丁目から淡路5丁目ヘ。阪急電車京都線・北千里線を斜めにまたぐかたちの引っ越しだった。
多くのひと、特に卒業生や知り合いが「下橋さんは徳之島に引っ越したんとちがうの?」と、思い込んでいた節がある。長い間に「下橋=徳之島」が刻み込まれていたのだろう。それもそのはず、二言目には「つれあいの郷=徳之島」と口にしていたのだから。
徳之島は義母トシの故郷である。戦争下一時台湾に疎開していたが、養父母に呼び返されたのか、敗戦前(米軍による植民地支配前)に、島に戻ってきたという。詳しいことはわからないが、そこで兵士だった男性と知り合い、むすばれ、つれあいが1945年10月20日に生まれた。まだ乳飲み子であったつれあいを抱いて、米軍が用意した船に(島に戻ってこないという約束のもとで)のり、親子三人は内地である福岡に帰着した。父が熊本出身であったためか、島にとどまる選択をしなかったのだ。
乳飲み子であったつれあいは、博多で高校卒業までくらし、卒業後通信教育で幼稚園教諭の資格を得たという。そのスクーリングなどのおり、大阪の専門学校に、神戸の西灘にいた母親のもとから通ったときいた。無事資格を得て、大阪門真にある幼稚園につとめている時、園児の保護者である私の姉の目にとまった。すでに、私の小学校の恩師である先生の紹介で姉は義見と結婚していた。その両親の間に生まれた娘が国児となっていた。その保護者である姉のメガネにかなったのか、いつまでも「仕事、仕事」で気配の感じられない弟の相手として、真っ暗なトンネルの中で出会う形でつれあいと見合いをした。二人は夫婦となり、3人の子どもをもうけた。
その頃、まさか「徳之島」に縁ができるとは思いもしなかった。義母は離婚後請われて、宮崎の男性(従兄にあたると聞いた)のもとに再婚していった。以来、義母は宮崎で亡くなるまでながく暮らした。
いつの頃のことであったか、ある時義母が私たち夫婦を自分の生まれ在所である徳之島に連れていきたいと考えるようになった。「島はわたしの知っている島とはまるで違ってしまった。もっと豊かな自然がある素晴らしい島だったが、変わってしまった」と、帰郷など考えもしないという感じであったのが、どういう心境の変化があったのか、私たちを郷里の島に連れて行くと言い出したのだ。それがそもそも私と徳之島との出合いであった。(このあたりのことは、だいぶ前に一文に認めている)
以来、子どもたちは何度か島に遊びに出かけた。私たち夫婦も、時に島に渡り、親戚筋とのつきあいを続けていった。そこで紹介され行き来していた親戚の方々の何人かは、すでに鬼籍に入っておられる。その子ども世代の方が、今や60代から70にかかるという移り変わりがあった。島の家を建てていただいた農業兼大工の棟梁のおじさんも、一昨年90歳の高齢で鬼籍に入られた。
10年近く前、親戚筋の中心であったおじさん三組のご夫婦が、共に亡くなられた。そのうちの組のご夫婦の息子夫婦は、転勤族で内地の各地に居を移して仕事を続けていたが、いよいよ実家が空き家になるということで、島に戻ってこられた。他方、シマの中心的存在である区長を長くされていた、もっとも信頼している方で、島の元高校の教師であったご夫婦は、今も島で暮らしているが、区長を長年務められた方は今では体調をくずされ、不自由な身体で施設にも頼らぎるをえなくなっている。つれあいと息子さんが、大変な介護を目々つづけられている。
西郷隆盛(セゴドン)が徳之島にながされたおり、島に上陸地「湾屋」(ワニャ)のごく近くにも、親戚が何軒かある。そのうちお二人とは今も行き来する。お一人は先に書いた大工の棟梁であった方のおつれあいである。もう一人はつれあいと一番年齢も近く、親しくしていた「紬織り」を今もやっておられる方。
親戚以外にも、ながらく島に行き来する間に、多くの知り合いができていった。その扉を開いてくれたのが、今では発行されていない《徳之島新聞》の編集長であった森啓介だった。まずは当時徳之島高校の教員だった中山先生を紹介された。中山先生は、高校の教員をしながら島の短歌会その他の指導に当たっていた。また、《徳之島新聞》でコラムを担当され、のちそれをまとめて「小冊子」にされ、島の歴史。文化・島口などについて随分教えられた。中山先生はのち徳之島農業高校に異動され、退職後も南日本新聞の特派員の立場で執筆をつづけられた。他方、【徳之島郷土研究会】の代表の徳富重成先生を知ることとなり、その後任の松山さん(徳之島町課長)とも知り合うことになった。また、長く神戸に滞在されながらご夫婦で《潮風》を発行し続けられた水野夫妻にもお目にかかる機会があった。その後、拙文を掲載していただいたこともあった。それに、忘れられないのは、島の文化人で歴史小説家であった方の生前にお目にかかることができた。こうしたこともほとんどが先の森啓介の導きによるものだった。また、伊仙町の民俗資料館の義館長、カムイヤキ遺跡発見の四本さんなどとも知り合った。
一方、私の親戚がかたまっている天町浅間や天城集落(シマ)の福本家具店店主、民俗資料館=ユイの館の館長の松村さん、学芸員の具志堅さん等々、今も教えを請い、親しく行き来している方との出会いも忘れ難い。
また、近年天城町立図書館との交流も始まった。以前から拙著の何冊かを寄贈し、書架にならべていただいたりヽしていたが、昨年になって私の書架にある沖縄,奄美関係の書籍の大半、文学全集その他を寄贈した。
書架の前には「下橋邦彦文庫」と貼られていた。その他、昨年夏天城町教育委員会からの要請で、現職教職員の「研修」も引き受けた。このように40年近くの島との交流、滞在によって、さまざまな出会いがあり、あらたに知り合った住民も増えた
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以上、引っ越しのことから始まりながら、横道にそれてしまったが、「下橋が引っ越し」と聞いて、「ああ、しもはしさんもとうとう徳之島に」と思われたのも無理はない。それほど、長く島とのかかわりを続けてきたのだった。また、この間、大阪を中心に多くの方が島に足を運ばれたり「ぜひ徳之島に行ってみたい」という方の案内、トライアスロンに参加するためにこられた方の接待、それ以外にも卒業生のグループなども子連れでやつてきた。その人数は数十人にのぼるだろうか。ごく最近、島で出会った方も何人かいる。徳之島移住もけっして不思議でも突拍子なことでもなかったのである。
しかし、離島は「車社会」である。島のひとは歩かない。ごく近くに出かけるにも車に頼る。しかも、多くの住民が「飲み方」を毎日のようにされていると聞く。近年はそのため「60代で亡くなる男性」が増えている。近い将来、もし引っ越したとすれば、やはり私も車で移動するだろう。酒もひんばんに飲むだろう。とすれば、60代はとっくに過ぎてはいるが、先行きが不安となる。 しかも、今運転は現役だが、運転できなくなった暁には、たちまち困ってしまうのだ。買い物ひとつできない。いまさら自分の食べる分くらい農業をして…というわけにもいかない。やはり、「二か所生活」を続けるのがいいのではないか。
こうした邊巡ののちに出した結論が、「80歳の無謀な引っ越し」であった。
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引っ越しは、人生で何度かするものだ。拙者の場合も、結婚後数回にわたり引っ越しした。その都度卒業生を煩わせてきた。引っ越しの度に「荷物」が増えている。特に今回の引っ越しをする前20年にわたり、「荷物」(そのほとんどが本と書類だが)は、確実に増えている。今回こそ「断捨離」するチャンスにしないと、何のための引っ越しかわからない。それで随分と捨てました。業者に来てもらい、引っ越す前と後と三度にわたり。
その気を起こさせたのには、それなりの理由があるが、今ははぶく。今回も卒業生にお世話になった。
引っ越し貧乏覚悟で、新しくした物品がいくつかある。家賃も高くなった。が、「人生最後の引っ越し」を断行した。その上で1年余りたった。さて、その損得勘定はどうなっただろうか。これが本題であった。
ずいぶん遠回りしたものだが、以下に「貸借対照表」並みに、書き出してみたい。
新たなマンションに移って日々暮らしていると、いくつかの点でこれまでと違う点に気づかされる。
まず、駅までの距離。以前より近くなった。「阪急淡路駅」の乗降は変わらないが。ただ、梅田などに出ての帰り、これまでは大阪市バスに乗って帰っていた。が、近くのバス停留所から新しいマンションまでが遠い。(高齢者割引で1乗り50円。阪急だと190円)。毎日通勤しているわけではないので、まあ目をつぶるとしよう。その替わり「JR淡路駅」が開通した。この線は各私鉄、環状線にも接続していてすこぶる便利だ。
阪急淡路駅の東口に出る用があるときは、いちいち阪急淡路駅のガードをくぐらないといけない。自転車でその急坂を上り下りするのは危険だ。西口側(淡路商店街側)から東側には徒歩で行く。
昨年夏、徳之島に出かけて教職員の研修を終えて戻ってきた。その二日後、すなわち8月9日だったか、天六での集まりに知り合いの家に寄せてもらった。その帰り、左脚が動かない。歩こうとすると痛みがあって、前に進めない。さあ、大変だ。なんとか痛みをこらえながら、ゆっくり歩を進めて、帰り着いた。
家の中の移動もままならない状態になっていた。トイレだけは用を足しに行かなくては。歯を食いしばってというのが真相だ。徳之島から戻って間もないので、冷蔵庫にはほとんど食料が入っていない。知り合いに「SOS」を発した。3人の方に買い物をお願いした。
整形外科にいっても治りっこない。ヨガで世話になっていた整体鍼灸師・具志堅達矢さんの整骨院「モイキヤ(MOIKIYA)」が引っ越した先の斜め向かいにある。痛い足でも無理に運べば、3分とかからない。そこで、急遠ドアをたたいて、窮状を訴えた。協力していただいている「花井医院」も徒歩2分半くらいの近場にある。
この二つに大いに助けられた。
貸借対照表は、あきらかにプラスに傾いてきた。買い物をお願いした方も、淡路商店街でほぼ用を足してもらえる。ラッキー。淡路駅の東側にも店がないわけではないが、西側の商店街のほうがずっと便利で、だいたいのものは買いそろえられる。プラスの材料が増えていく。
クリーニング屋も西日近くに一軒ある。そこへ自転車を走らせる。コンビニは東口に集中しているが、さいわい一軒マンションから歩いても近いところに一つある。ここでコピーを毎日のようにとる。ついでにコーヒーを一杯飲みながら、コピーしたものを半折にする。もう少し歩き商店街に入ってい〈と、スーパーが一軒。うれしいことに、最近野菜を多く置いている店ができた。若いお見ちゃん3人で回している。品を選んで買えば、かなりのお得感のある店だ。週5日開いているのもうれしい。
一軒あるコンビニ「ファミリーマート」の店の方は、元気が良くハキハキした物言いで、接客態度に好感が持てる。お気に入りの店員さんもいる。いつも声かけをする。そのファミリーマートで、昨年暮れ近くに、近隣の小学校の子どもたちに出会った。そこでの立ち話から、近くの小学校を訪ねることにもなった。
また、そのコンビニのごく近くに、自然食品の店「レーヴショップ」があった。有機栽培の食材も多種類そろっていて、身体に良さそうなと思える品が置いてある。もう少し歩くと、自転車屋「タラウマラ」という面白いネーミングの店があり、好感の持てる対応だ。
このコンビニを左に回り、すこし行くと商店街に出る。そこが郵便局だ。手前に「アジア図書館」の古書店がある。時にはよって1~2冊買い求めることもある。駅に近い所に「オーエスドラッグ」が地蔵市場廃業に伴ってやってきた。男性の店員の対応がなかなか良い。
そのアジア古書店のほんの少し手前右手に、カラオケ店、ライブのできる店、居洒屋などが入った小さなビルがある。その居酒屋の一軒が「おばんざいの店・かあちゃん」だ。ここの「おばんざい」は、大鉢10皿くらいがカウンターにずらりと並んでいる。そのお味は、「よくぞこんなに美味な味付けを」と思えるほどだ。
ところで、最近になって「音楽喫茶(居酒屋)=藤久」という店を、いつもライブで演奏しているピアニストとボーカルの人に教えてもらった。アテの品数の多いこと! 200種類くらいもあるとか。その右隣りが高級インド雑貨「カオス」だ。所狭しとインドの神々にまつわる品が並んでいる。「お香」もいろいろ種類がある。
商店街の本通りでない、一つ奥まった筋の道には、ほかにも洋食屋兼ワインバーとか、お蕎麦屋さんとか、狭いところに並んでいる。さらにもう一つ奥まった道もあり、そこにも店が並んでいる。
この界隈を探検したくなる。ということで、知り合いを誘ってみたくなる。先の「藤久」の店主の方はクラリネットの演奏者でもあるそうで、先のおばんざいの店の下にもライブハウスがあり、結構演奏会もひらかれていると教えてくれた。
ここで思い出すのは、阪急から堺筋線に入ると、「天六駅」にまもなく着く。日本一長い「天神橋商店街」が延々と続いているが、天六あたりの商店街をちょっと横手に入ると、また次の辻があり、そこにもいくつかの商店や居酒屋風の店がたくさん並んでいる。 これとほぼ同じ感じが沖縄本島の「国際通り」だ。本道だけ歩いていては、とうてい沖縄の風情は感じられない。観光客用の店ばかり。そこから少し奥に入り、「ヤチムン通り」あたりからおくまった辺りに、「これこそ沖縄」と感じさせる店がある。沖縄は夜が遅い。12時になる頃、「さあ、飲′`み始めよう!」という感じだ。
土地のことは土地の人に聞け。規模はちがっても、これは鉄則だ。国際通りの裏手の商店街しかり、天神橋商店街しかり、規模は小さいがここ淡路の商店街も下町の雰囲気がじっくりと伝わってくる。
もう一つ忘れてならないのは、次第に消えていってはいるが、まだ健在なところもある「銭湯」だ。マンションからわずかな距離にある「昭和湯」の存在だ。水曜日が定休日だが、あと6日は開いている。久々に熱い湯につかると、「ああ、風呂に入った!!」と、堪能できる。身体をまず全部洗い終われば、ラドン湯に入る。それほど熱くないので、ここで冷えた身体を温めた後、高温の湯舟に入る。ここにゆっくり身体をしずめ湯冷めしないように十分に温める。かくて、脱衣場で乾いた喉を「カボスジュース」で潤す。銭湯は大人一回450円。回数券を買うと、一回430円になる。そのうえ、敬老の日が月に2回ある。この日は、シルバーは280円で入れる。よく忘れるので、銭湯の主の女性は、「カレンダーに○をつけてる人もいますよ」と、教えてくださる。親切だ。時折土産の品をわたす。
この銭湯の方と自然食品の店の方には、昨年10月に出したエッセイ集『傘寿を越えて吹く風』(上下二巻)を購入していただいた。日ごろの付き合い方次第で、そういうことも起こるのだ。
この淡路商店街では、たいがいの物はそろう。引っ越ししてどれくらい経ってからだったか、大起水産のすし屋がきた。店頭売りの店だ。これまでに泉の広場の前:こ回転すじの店があった。阪急三番街に座って食べる床几があった。主に持ち帰り用に販売している。がしかし、今回淡路商店街にも持ち帰りの店ができた。客が来るときは、ここで巻き寿司や握り寿司を買い求めて間に合わせることが多い。すぐ隣に高級食パンの店があるが、高くて買えない。美味しいには決まっているが。
また、この商店街には数軒喫茶店がある。が、いずれも「喫煙可」のため、息苦しい。そのうち一軒の喫茶店は宮崎出身だというガンコ親父が店の前に陣取っている。どうしてもという場合は、東回の方の「ハート♡コーヒー」のモーニングサービス目当てに行く。ここには、奇跡の出会いをした小学校の同窓生と時折待ち合わせる。そこから徒歩で少しばかりいくと、完全禁煙の「オリーブ園」という喫茶店がある。ここは人がよく集まる場で、今度『ことばの会』という有志の集まりを二カ月に一度開くことになった。他にもいろんな催し
が行われている。(その後、淡路駅西側の喫茶店《きのう今日あす》に場所を移ることに。
忘れてならない店に和菓子の「あさだ」がある。東側の商店街と他に2か所ある。ここの和菓子店は今の店主夫妻のご両親がずいぶん前から大きく発展させてきた和菓子店だ。ただ味がよいというだけではない。和菓子は古典の世界に通じるとして、若い店主がよく研究しておられる。四季折々の「和菓子」の真髄を極めようと努力されている。地域に根付いた和菓子店だが、淡路だけでは惜しい店だ。時に阪急デパートにも、進出したことがある。まだまだ語り尽くせないが、今回の引っ越しで、この淡路商店街に近くなったメリットは数え
きれないほどだ。ここまで書いてきたら、《引っ越し貸借対照表》がどっちに傾いているかは一目瞭然だろう。
最後に、このマンションに入居するにあたって斡旋してもらった「KKモリホーム」について一言。
一代目の代表がこの界隈の不動産業の基礎を築き、拡充したらしい。それを受けての二代日が今の代表だという。が、おもしろいことに、 この代表はほとんど店の1階に姿を現さない。ほとんど2階で過ごしている。昼時になると食事で外に出るため降りてくるが、降りてきても客にあいさつしない。店長は、「ああいう人なんだ」と割り切っているようだ。店の営業を店長の他3人くらいで担当しているようだが、店長以外は、奄美の徳之島伊仙町の出身者だ。そのうちのお一人の営業担当と、私は親しく話すことがある。島の伊仙町の役場の目の前にある商店の息子さんだ。その店に尋ねていったことがある。よくしてくださった。その後、社長さんとは、親しくお話し、まるで友人のような関係となった。
(完~しもはしくにひこ書く)
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