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コラム コロナ禍に想う

◆ことば。議論・民主主義
  ~コロナ禍を「ことばの力」で克服することが大事だ!


 昨年来のコロナ禍は、これまでとは違った世界の様相を生み出している。だれも、どの国も、いかなる地域も「コロナ禍」をまぬがれない。京都の社会学者。大澤真幸さんは、そういった点をふまえ「世界共和国」構想なるものを描いている(毎日新聞、2021,1・5「コロナで変わる世界」)
 これまで国連では、いかなる決議をあげようと「自国に不利なら従わない、有利なら従う」といったことが平気でやられてきた。核の保有国は、いくら国連が決議しても、その保有を放棄しない。核禁条約に50カ国が批准しても保有政策を変えようとしない。そういう拘束力をもたない「国連決議」を、今回のコロナ菌は蹴飛ばしてしまった。コロナ菌は「平等に」世界の人間におそいかかり、大変な感染者を今もってふやし、実に多くの死者を生み出している。国同士が、人間同士が手を結びあわないとコロナによる災厄には勝てない。
                  ○
 免残:学が専門の本荘佑氏(ノーベル医学生理学賞)は、医学の見地から、今の政府のコロナ禍への対応は間違っていると強く指摘する。
 ――僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。・・・政府は観光業などを救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのでは一。
 Qコロナの流行を抑えるには?
 ――検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数をお抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営の悪化の問題。
「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょうか。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の遍迫は人為的に引き起こされている面があると言わぎるを得ません。――
 このように率直に、端的にものを言っている人は少ない。
 Q今年、私たちの生活はどうなるでしょようか?
 ――安全で安心な領域を少しでも広げて、社会防衛をしなければなりません。例えば、ある地域では広範な検査をすることで多くの人たちの安全を確保し、ある老人ホームでは月に1回くらい定期的に検査して安全性を担保する。大学生もオンライン授業ばかりはかわいそうなので、月に1回検査を受けて、安心して通えるようにする。そういう社会的基盤を作らないと、安心して社会活動はできないと考えます。
 Q先手を打つということが大切なのですね。
 ――そうです。少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。
 日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。(下線部は引用者)
 根本的な問題だと思います。【聞き手:御園生枝里】(2021・1・6毎日新聞)
免疫学者としてのこの指摘を、露出ばかりがめだつ政治家というひとはどう聞くだろうか。
                  ○
 同じ政治家でも、目を下に落としメモ用紙を読んでいるひとと、国民の安全安心を確保することがみずからの使命だと心に決めたひととでは、おおきくちがうということを、私たちに感じさせる昨今である。
 毎日新聞2021・1・6の「オピミオン・論点」に登場した作家の
多和田洋子氏のインタビュー。
 多和田氏はベルリン在で、ドイツ語と日本語の両方で創作を続けてきた作家だ。先の「世界共和国」ではないが、「人間も国境を越え、変わり続ける力を持たなければ」と語っている。【聞き手:小国綾子】
 ドイッといえば、すぐにメルケル首相という名がでてくる。小国記者はまず「ドイツに暮らしていて、日本と違うと感じたことはなにですか」と聞いていく。以下多和田さんの回答をみていく。
 ――議論のありようが違いました。新型コロナウイルスをどう感じるかには大きな個人差があります。「ただの風邪」だと言い切る人もいれば、これはまだ序の口で、環境破壊の結果として、これからはウイルスの時代が始まるという人まで。ドイツではこういう時、いつもわいわい議論します。「怖がり過ぎだ」「いや、慎重であるべきだ」などと友人周士がまるでコげんか。でも、それが普通のコミュニケーションなのです。′/私は日本で育ったせいか、人が言い合いをしているのを見るのはやはり苦手。だからつい、仲裁に入ってしまう。でも、ドイツ人のように意見をはっきりぶつけ合った方が、お互いの考え方に触れられる。大事なのは、議論し、時にけんかになっても、その後は機嫌を直し、友情を壊さずにいるスキルの方ではないでしょうか。/対立を恐れず、はっきり物を言い合い、その上で折り合えるところを模索する、そういうコミュニケーションに日本社会はもっと慣れた方がいい。なぜなら、日本の外側では、コミュニケーションはもっと激しく波打っているからです。/異なる意見とぶつかり合うこと自体を面倒くさい、やっていられない、と避けてばかりいると、11本は個人レベルでも社会レベルでも「鎖国状態」に陥ってしまいます。//民主主義に一番必要なのは議論すること。政党間の議論だけではなく、個人レベルで家族や友人、職場の仲間との間でそういった議論を交わすのもいいのではないかと思います。/「それをやると人間関係がこわれる」と波風たてないことを優先するのではなく、まずは「口にしちゃだめ」という社会から、「口にしても大丈夫」な社会に変えていかないと民主主義は育ちません。/ドイッ人の多くは、国民の声は政治に届くし、届くべきだと考えています。だからデモも多い。日本では、自分たちの声は政治に届かないと国民が諦めてしまっているように見える。国民がそう感じていることに気付いても、政治家の方も意に介していない。――
 この前段ともいうべき多和田さんのインタビューを長く引用したのも、あまりに日本の現状の問題点を突いているからだ。わずかに新聞などに投稿するケースを除けば、国民一人一人がどう考えているかがはっきり表明される機会も場もすくない。スマホでメールする、Facebookで「いいね」と書く、ツイッターのような短文でことを済ます、およそ議論とは縁遠い実情が日々を覆っている。
 そういう拙者はどうか。やはり「納得いかない時にはものをいう」ことはよくある。しかし、そこで議論じ物事の是非を論じあうことはあまりない。「まあな」といったあいまいなところで済ませている場合が多いのだ。腹ではもっと言いたいことがあるが、言うと人間関係を壊すおそれがあると、あいまいなままで終わらせる。これも「日本人の美徳」という歴史が長いからか。
 ずいぶん以前、中国への旅で上海の空港にいったん降りたことがあった。待ち時間はかなりあった。空港は混雑している。その混雑した場で、上海人同士がはげしく「言い合う」場面に出くわした。かなり大きな声で。聞きようによっては「喧嘩」しているようだ。しばらく激しくやりとりして、声はおさまった。もう「喧嘩」は終わったのかなと、また合図があるまで乗り継ぎの飛行機を待っていた。すると、また先ほどの二人が大声で罵り合っている。第ニランドが始まったのである。二人のやりとりは先ほど同様に激しい。延々と続いている。それからしばらく続いているうちに、どうやら乗り継ぎの飛行機が来たようだった。あとで事情に通じた方にきくと、あんなことは日常茶飯で、べつに「喧嘩」しているのでなく、自説を展開しているのだと。これには、日頃人の多い場所で議論する場に出くわすことのほとんどない私たち日本人は「議論」だと納得するのに時間がかかる。
 さきにインタビューの冒頭部を引用したが、多和田さんのドイツ社会での「民主主義」の基盤に「議論」があるという説に、やはり納得させられるのだ。そうだ、SNSなどで個人間でやりとりして済ませ、およそ今の社会にあって必要な問題点について議論することなどほとんどあり得ない日本の現状の問題点を突き付けられたように思えた。(このくだりの縦見出しは「議論と友情は両立/視点回転させ思考」となっている)
 後者の見出しに関して、聞き手の小国記者は、「政治家といえば、コロナ禍では世界各国で政治家の言葉が注目されました」と多和国さんの発言を促している。
 ――ドイツではメルケル首相が3月、最初のロックダウンを実施する前に国民に向けてテレビ演説を行いました。彼女は「誰を守るのか」を明快に語りました。/まず、社会的な弱者を守る行動をとりましょう、と呼びかけました。社会的に弱者の方が感染しやすい現状がある。高齢者や基礎疾患のある人たちが重症化しやすい。彼らや、医師や看護師ら医療従事者、労働条件の悪い工場で働く人、移民施設で同居する大勢の人々を守りましょう、と。(現在の日本の首相である菅さんは、ただ原稿を読み上げているだけではない。「国民」という不特定多数に、生きた言葉ではなく、官僚や側近の書いた「作文」を読み上げているだけなのだ。「国民」のだれに向かって語りかけているのか、自分が発している言葉が人々の胸に届いているかなどには無頓着である。首相という立場上、逃げられないから仕方なく言っている様が見え透いているのだ―下橋)
 多和田さんの言葉をきこう。
 ―一演説には、物理学者らしい冷静さとわかりやすさがありました。同時に、何がなんでも子どもたちを守る、という「お母さん」的な温かさが感じられました。彼女がいつも以上に国民の信頼を得たのは、コロナ禍でどういう政策を取るのか、それはなぜなのかを、明白にその都度説明したからでしょう。(その一方で、なお感染が拡大していた年末近く、ふたたびドイツ国民に対し、髪振り乱しという形容は当たらないかもしれないが、するどい眼光で断固としてコロナ禍を克服するのだという政治家・首相としての気概と、迫力ある言葉が国民に浸透し、信頼感をより醸成したのではないかと感じさせられた。つい先日、イギリスのジョンソン首相が三回日の「ロックダウン」を宣言した時の様子がテレビで映し出されたが、メルケル首相ほどでなくても、このまま感染が拡大すれば大変だ、国民は本気で外出を自粛し医療機関が崩壊しないよう協力しようと、力強く語りかけていた―下橋)
 多和田さんは、加えて次のように語っている。
 ―一また、ドイツの文化相|ま「芸術は生活必需品である」と演説しました。国のアイデンティティーがそこにあるから。この言葉によってドイツ国民は「私はそういう国に暮らしているんだ」と感じ取ることができました。/もちろん現実は経済原理で動いている面がありますが、それは仕方ない、と諦めることはなく、それではだめだという意識を政治家が持っているだけでもすごいと思います。/一方、日本の政治家の記者会見を見ると、わざと意味がわかりにくくなるようにしゃべっているように感じます。国民をごまかすための言葉、隠す言葉に聞こえてしまう。【このあと、現在執筆中の長編二部作の章ごとに語り手を変えて執筆している点について間われて、次のように語っている】
 ―一人間の多面性を描きたかったのです。人間には完全な善人も完全な悪人もいません。少し視点をずらすと、意外な姿が見えてきます。/それは地球規模でも同じです。日本から見れば「あの国は嫌い」となるかもしれないけれど、その国から見れば逆に日本が嫌国なのかもしれない。そんなふうに視点を回転させて考えることが大切です。・・。「回転舞台」のような小説を書きたい。・…一方的な見方に終始しないように。他者と、あるいは異文化とぶつかるように激しく出会うことで、視点が回転し、それまでの自分と少し違う自分に変容していく。小説には、そんな力があると思うのです。――
 この多和田さんの言葉を噛みじめたい。人間は多面的存在だという、ある意味当たり前のことを私たちは日常忘れていて、′まんの切片だけを聞いて、見て、読んで「Aはああいうやつだ」と、一刀両断する。拙者の周りにも「嫌韓派」の人がいる。両民族の歩んできた「歴史」を自分の目でとらえ、判断せず「気に人らん」という感情で切り捨てる。「嫌中派」のひともおなじ。その時、自分の立ち位置、自分という人間の形成過程をふりかえらず、感情論でことを処理しようという傾向が強いのだ。この点について、多和田さんの話を聞こう。
 ――(聞き手・小国記者)視点を回転させるためには異文化に触れる経験も大切です。でもパンデミック(世
界的大流行)で留学や国際交流は難しくなりました。 《 N04 》
 多和田さん――残念なことです。国境が閉じているこの年が、若い世代に大きな影響を及ぼしてしまうかもしれません。若い人にはぜひ、母語でない言葉で対話し、「国家=言語」という構図が崩れる体験をしてほしいのに。(拙者はいわゆる日本語を母語としていて、他の言語で会話する能力をもちあわせていないが、母語でしゃべることを相対化する視点はもっていたいとおもう。この点について、多和田さんは次のようい言う)
 ――母語で話すことは、何かしら不自由だとも言えます。なぜなら自分が育った国の言葉をしゃべっただけで、その国の立場から物を見てしまう。その国の一員としてその国を背負ってしまう。言語の歴史や語彙、リズムや抑揚や言い回しがそのようにできているから。母語をしゃべるとその国の一部になってしまう。そこからなかなか自由になれないのです。(先に拙者は、「母語でしゃべることを相対化する視点をもっていたい」と書いたが、この視点を忘れると、日本語をしゃべることを絶対化し、その日本語で自己形成してきたことでの偏りに気づかないまま他国。他民族排除(このなかには沖縄やアイヌの人も含まれるが)に加担してしまう)
 ある時、韓国のドイツ文化センターのイベントをした…その時、韓国人の方から「ぜひドイツ語で日韓の歴史を書いてほしい」と言われたんです。日本語で書かれた小説だと、どうしても「日本人の日線で書いている」感じがしてしまう。でもドイツ語で書いてくれれば先人観から自由になれる、それを読みたい、と。
                  ○
 ひとは自分がどんな位置にいるのか、どういう人間形成をしてきたのかに気付くことなく、自己肯定している傾向が強い。「自分は自分だ、それが何が悪い」と居直っているひとがおおいのではないだろうか。議論抜きに、他者と意見をたたかわすことなく、「自己のオールマイティー性」を疑わない。そういった傾向がきわめて強い。自分と反対の位置にあるひととまで言わなくても、日頃身近につきあっている人らと、「こう思うんやけど、どう思う?」と問いかけていく習1貫をもてば、「ひとって多様なんやな、一面だけでとらえていたらあかんなあ」と気づき、みずからを振り返る機会をもっていけるのではないか。
 さて、コロナが昨年話題になりはじめて、1年がたつ。これから先どうなっていくか先は見通しにくい。こ
の点について間われた多和田さんは、次のように答えている。
 ――(聞き手一世界は協力し合ってウイルスに立ち向かえるでしょうか?)
 ――ウイルスは、幸いなことに国家間の戦争ではない。むしろ世界が協力し合わなければ解決できない課題です。いわば今回のパンデミックは「戦争の逆」なのです。/私はメタファーとしての新型コロナウイルスは「尊敬に値するなあ」と思います。/なぜなら、新型コロナウイルスは生命から生命へと常に移りすみ、しかも変異を繰り返すことで生き延びていくからです。敵はこんなにもしたたかなのです。/ならば、人間ももっと国境を超え、異なる文化や考えを持つ相手と出会い、ぶつかり合い、響き合い、それぞれに変わっていくような能力を持たなければ。そうでないと、このパンデミックを乗り越えられないのではないかと思います。
 (ふたたび下橋が語る)言い方を変えれば、人類は、現世界の人間は、コロナによってどれくらい賢明な存在であるか、どれほど愚鈍な存在であるか、試されているのだ。さいわい国家間の戦争ではない。共通の、共同の相手=コロナ菌とのたたかいなのだ。その意味で、多和田さんが言われるよう、「メタファーとしての新型コロナウイルスは『尊敬に値するなあ』と。」
 このエッセイの始めに、大澤真幸さんの「世界共和国」についての考えを引用したが、国家、民族、身体性等々をこえて、国連はじめ国際機関がなしえなかった「世界が共に和していく」人類がこれまで達成できなかった課題に向き合う、ある意味またとない好機ととらえることもできるのだ。そのためには、言語の違いを超えて、「ことば」という共通の人類的資産によりながら、自分の言語のみに固執せず、他の言語で語られる多くの「言説」に耳を傾ける好機として、現状の困難に立ち向かっていくことをみずからの課題としていきたい。
                           2021年1月8日(金) 引用者・語り手:下橋邦彦

 

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